July 14, 2018

伊豆七島、式根島。

 


 その週末は西日本を中心に記録的な大雨の被害が広がり、私の実家も一時避難指示対象地域に入ってしまうという週末でしたが、心配すること以外にできることはないので、予定どおり伊豆七島は式根島にスキューバダイビングに行ってきました。


 金曜深夜に竹芝桟橋を出港する頃には東京の雨は上がり、大島を通り過ぎる頃には「さるびあ丸」の甲板から水平線上の穏やかな朝焼けを眺め、午前8時、式根島の野伏港に入港した時には真夏の日差しがまぶしかったです。



 ダイビングはものすごく久しぶりで、スキルの再確認も必要だし、そもそも年食って体型も体調も変わっているので以前を同じ事ができるのかどうかも心配だしということで、午後からゆっくり、ビーチエントリーのやさしいダイビングを2本の予定。なので、午前中は原付バイクを借りて島を一周りしてみました。


 リアス式海岸に囲まれ、ところどころの入江ではエメラルド色の海が涼しげです。



 聞けば、先史時代から平安時代の遺物も出土しているそうで、この島に古くから人がいたことが分かります。江戸時代にも八丈島に渡る時の風待ちのために船を入江に入れたり、隣の新島の人々が漁に来たりしていたようですが、改めて定住者が入植したのは明治21年(1888年)のこと。昭和12年(1937年)の開島50周年の碑と、昭和62年(1987年)の開島100周年の碑が建てられておりました。


 4世帯8人が入植した当初は真水の確保に苦労し、3年がかりで掘った「まいまいずの井戸」。現在は新島から海底に敷設したパイプを通じて真水が送られてきているそうです。

 現在の島の産業は漁業と観光業。
 小型漁船で近海の魚を捕っているそうで、いろんな種類の魚が揚がるそうですが、季節になると5kgくらいの脂ののったマグロがうまいという話です。また、タイの養殖も行われている様子でした。しかし、巻き網漁船による大規模漁業の影響で、この島の家族経営的な漁業は厳しいとの話も聞きました。先行きが明るくないので、跡継ぎがいないし、継がせたくもない。いずこも同じでよく聞く話です。


 観光業の方は、釣り客がメイン。海水浴客、私のようなダイビング目的の客もやってきます。島内に何か所かある海辺の露天温泉も楽しめます。




 しかしこちらも厳しいようで、民宿の数は往時の半分くらいになってしまったとのことでした。私が式根島に行ったのは7月初頭のハイシーズンに入る少し前だったので若干割り引いてみないといけないし、また日差しと潮風の強いところで屋外のものが早々に色あせてしまうということもあるんだろうとは思いますが、それにしてもこんな風なギリギリな感じの宿や店が多く、明らかに廃業してしまっているところも目に付きます。

 観光のハイシーズンは夏の約2か月間だけ、台風シーズンになれば客足は落ちるし、冬は暇だしということで、島の人は夏は民宿など観光客相手の仕事をし、それ以外の季節は漁業を手伝ったり、隠れた産業である公共事業に従事したりしているようですが、それもそんなに実入りがよいわけでもなく、先細りを思わせる話でした。

 ということで、いずれにしてもあんまり景気のいい話ではないので、若い人が定着せず高齢化が進み、働き手が高齢化するからまた民宿が閉じるという悪循環。少子高齢化の昨今、日本全国どこでも似たようは話は聞きますが、都内からのアクセスはそんなに悪くないところ(竹芝桟橋から大型船で9時間、高速船で3時間。調布飛行場から飛行機で新島まで40分、新島まら船で20分)にある美しい海と島というアドバンテージを持っているのに、それでも避けられないこの現実。開島100周年、昭和62年には700人を超えていた島の人口は、今は550人くらいだといいます。

 行政もただ傍観しているわけではなく、東京都は人口当たりで見れば破格の予算を離島に割いていますし、平成31年3月末までの期間限定ではありますが伊豆七島の加盟店で有効な電子クーポン「しまぽ」を発行したりもしてます。

 それでこの「しまぽ」、観光客が7000円で購入すると都が3000円の補助を付けて1万円分のクーポンとして使えるという仕組みなのですが、認知度はあまり高くないようで、しかもお店側にしてみると運営側(JTBだそうですが)に手数料をピンハネされるのでちょっともにょもにょしてました。私も式根島に行くと決めてから「しまぽ」の存在を知ったわけで、「しまぽ」があるから伊豆七島に行こうと考える人がどれくらいいるのかなと考えると、若干疑問な気もします。まあ、お得感はあるし、離島振興をがんばっているという広報効果があるとして、それで良しとするんでしょうかね。

* * *

 とはいえ、エメラルド色の海、亜熱帯のハイキングコース、近隣にはサーフィンに好適な島もあり、しかも都内から近い。金曜の夜に出て、日曜の夕方には戻ってこれる、都内の勤め人の週末エクスカーションにはもってこいの場所です。ご興味ある方はぜひ。おすすめです。

June 16, 2018

電波マンション。




 通勤途中に古い5階建くらいのマンションがあって、そのマンションの前に頭おかしい張り紙が貼られていたり、ゴミだかなんだか分からない荷物が積まれたりしていて、どうも入居者に電波系の頭おかしい人がいるんだろうなと思っていたら、ある日、そのマンションのエントランス前で大声で隣人を罵っている六十過ぎくらいのおばさんを見かけることがあって、「あ、この人だな。くわばらくわばら。」と足早に通り過ぎたんです。

 そのマンションは古くて、どんどん入居者が減って人気がなくなり、やがてそのおばさんしか住んでいないような幽霊屋敷状態になっていたのですが、ついに建て替え。コンクリート打ちっ放しで、かっこよくて機能的そうなマンションに生まれ変わりました。

 ところが。

 その素敵マンションの駐輪場に怪しげな張り紙。通用口付近にゴミっぽい荷物が積まれ始め、キ○ガイのニオイが漂い始めました。そしてある日、マンションの裏側を通る機会があって、見上げたらこの写真。最上階角の一番いい部屋の前の廊下にガラクタ山積み。屋上にもなんかゴミっぽいもの積んでる。

 あの電波おばさん、どうも地権者なのか、建て替え後の素敵マンションにも優先して入居してたんです。
 
 いやー、こんなマンションに住んだら災難ですよ。新築で素敵なマンションだけど、キ○ガイおばさんのせいで台無し。間違いなく、不愉快で不毛なトラブルに巻き込まれる。その状況が眼に浮かぶ。

 ということで、物件を選ぶときには現地で、周囲もよく確認してから決めようね、と改めて思った次第です。

 現場からは以上です。 

March 11, 2018

スーツを買う。

 

 20年ほど前、就職に伴い上京した僕は、近くの紳士服量販店でスーツを買っていました。

 ところが、裾が短かったり、妙な生地だったり、ウェストが太過ぎたり細過ぎたり。会社の人から「ズボンの丈が短くない?」と指摘を受けて恥ずかしい思いをしたりしてました。測って合わせたはずのスーツを、一度受け取った後に再度店に持ち込んで、修正をお願いすることも度々でした。

 そんなことを繰り返していたとき、いつのことだったか、僕は新宿の某デパートの、大きいサイズの扱いが充実したところにスーツを見に行きました。

 応対してくれたNさんという自分の母親くらいの店員さんは、スーツの選び方、ネクタイやシャツ、靴などの選び方や買い方について親身になって相談に乗ってくれました。量販店で買うよりは少し高くついたけど、安心して着られるスーツを、僕はそこで買いました。

 次のスーツも、その次も、Nさんに相談して買いました。Nさんは僕がどんなスーツを持っているのか知っているので、買い足すならこういう生地や色のスーツがいいでしょうと、的を射た助言をしてくれました。

 僕のスーツの最初のワードローブは、Nさんに揃えてもらったようなものです。

 そのうち僕が海外でも仕事をするようになり、日本は冬物の季節なのに海外の出張先や赴任先の気候の都合で春夏物のスーツを注文するという無理を聞いてくれたのはNさんでした。あるいは一時帰国で東京に短期間しか滞在できない時、海外からお店に保管されているはずの僕のカルテを元に予めスーツを作っておいてもらえるようお願いしておき、東京滞在中に出来上がったスーツを受け取るというわがままを聞いてくれたのもNさんでした。

*   *   *

 少し間が空いて、次の季節のスーツを相談しようとそのデパートに出かけて、いつものところで「Nさんはいらっしゃいますか?」と尋ねたら、店員さんが少し困った顔をします。「Nさんは先日亡くなったんですよ。」

 ちゃんとお礼もご挨拶もする間もないまま、Nさんは亡くなってしまいました。Nさんにどんな家族がいらっしゃったのか、どんな人生を送ってこられてのか、僕はほとんど何も知りません。でも、僕の東京生活、職業人生のスタートを支えていただいたのはNさんでした。もう亡くなってから何年も経ちますが、今でも、感謝しています。

*   *   *

 今日また、新しいスーツを作りました。同じデパートの同じところで、Nさんに代わってEさんという男性店員さんに、ここ何年かはお世話になっています。Eさんもプロです。前回スーツを作ったのは1年以上前だったのに、カルテを見ることなく、「前回は裾を後で少し出しましたよね。」「胸回りが少し大きくなってるような気がしますね。」「前回はこのイメージで作ってましたが・・・。」と、手際よく固めていってくれます。

*   *   *

 デパートは構造不況業種だといいます。たぶんそのとおりでしょう。僕が惰性でデパートで買っているだけで、いい専門店が他にもたくさんある、というのもそのとおりだと思います。友人が紹介してくれたオーダースーツの某店も、同じレベルのスーツならそのデパートより何万円か安く買えそうですし。

 でも僕は、たぶん今後もそのデパートの、NさんとEさんのところで買い続けるでしょう。スーツと一緒に、思い出や物語を買うようにね。

*   *   *

 新宿伊勢丹メンズ館の永堀さん、ありがとうございました。江幡さん、これからもよろしくお願いいたします。

January 04, 2018

2018年。


 2018年の正月です。

 実家に帰って家族親戚の顔を見るのですが、親も老い、叔父叔母も老い、存命の祖母はもっと老い、当然ながら自分も老いているわけで、数年前に感じていた「今のままがいつまで続くのか」というぼんやりとした不安が着実に目の前に迫ってきました。

 仕事の上ではもはや十分過ぎるほどに「中堅」で、自分のポジションが固まり、充実はしているもののだんだんと先が見えるようになってきました。若い頃は広がる未来の可能性の中から自分の進む道を選ぶことができましたが、この頃は選んだ道を前進することで手一杯です。

 このまま、日々は流れて行くのでしょうか。

 先が見えているようで、見えていない。今すぐどうこうというわけではないかもしれないけど、このままというわけにはいかない。

 そんな予兆を感じながら迎えている新年です。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。

August 29, 2017

読書感想文「お父さんの日記」

あの「築50年の家をフルリフォームしたらいくらかかるか」でバズってたブログ主が河相我聞さんであることは知らなかったです。

若くしてお父さんになったのは昔聞いた覚えがあるけど、もうテレビ自体をあまり見なくなっちゃってるし。

「お父さんの日記」 かあいがもん (宝島社)

結論から言うと、すごくよかったのです。この本。

若いパパと二人の息子の暮らしを中心に綴られています。風通しのよい三人の関係がほのぼのとあたたかく、またひとつ別の、世間体なんかにとらわれない今どきの家族のお話になっていて。筆致は軽く、ネタもオチも楽しいライトな読み物なんだけど、その軽い筆致の裏に、人生や子育てについて結構骨太、でもしなやかに向かい合う我聞さんの思いが滲む感じで。

我聞さん、僕とは全然違うんですけどね、生まれも育ちも今の暮らしも。
でも、自分の人生をちゃんと生きれているのかな、自分をちゃんと信頼できているのかな、と自分の足元を確認して、あしたもがんばろうっていう気になる本でした。

August 05, 2017

うまいもの。

いつだったか、父に「今まで食べたもので一番おいしかったものはなに?」と聞いたことがあります。しばらく間があってから、父は、「昔、学生時代に北海道を貧乏旅行したときに山の上で食べた麩菓子。あれが一番だろうな。」と話しました。

そう。そのものが客観的に言ってよい味がする、というだけではなくて、いつ、どこで、何を、どんな状況で食べたかによるんですよね、おいしいかどうかって。

僕にも、口に入れた時に思いがけず目がうるっとしたものがいくつかあります。

アフリカの途上国で国際援助のしんどい仕事を終えて東京に帰って来た友達が、和食が食べたいというので出かけたカウンターだけの小さなお店。そこで出された、囲炉裏の遠火でゆっくりゆっくり焼いた若鮎。

めったに遠出をしない母が父に連れられて上京してきたので、少し奮発して予約した、浜離宮を見下ろす眺めのいいレストラン。そこで出された、厚切りのサーモンのコンフィ。

金曜の夜、大人になってそれぞれ違う世界で仕事をしている友人たちと明け方まで飲み歩き、遅く起きた土曜の昼に一人で入ったタイ料理店。そこで出された、少し濃いめのチキンスープ。

そんな、いろんなものがピタッと合った瞬間に、「ああ、うまい」と独りごちるのです。

またうまいもの食べたい。

October 01, 2016

東の果てから、西の果てアゾレス諸島へ。


 思い立って、ちょうど1年ぶりに旅らしい旅に出かけてきました。行き先はポルトガル領アゾレス諸島。首都リスボンから北大西洋上に飛行機で2時間ほど、人が住む9つの島とその他の岩礁からなる火山群島です。噴火でできた丘陵やカルデラ、盆地や湖など変化に富んだ地形が興味深く、ヨーロッパ旅行中の友人Sがアゾレス諸島に滞在している時期を狙って、これ幸いとばかりに一緒に旅行してきました。

 上陸したのはサン・ミゲル島とピコ島。


 サン・ミゲル島は9つの島の中では面積最大(759.41平方km)、人口も最大(約15万人)の島です。ヨーロッパ各国のみならず、北大西洋の対岸のアメリカ東海岸からも空の便があり、アゾレス諸島の拠点となっています。


 アゾレス諸島がヨーロッパ人に最初に発見されたのは西暦1427年、群島の全体像が知られるようになったのは15世紀の中頃のこと。しかし、北大西洋の真ん中、北米大陸からも欧州からも離れた場所にありながら、覇権を争う各国の世界史の波から無縁でいることはできず、16世紀から17世紀にかけてはカスティーリャ王国(後のスペイン王国の中核)の部隊が駐留し、英国やマグレブ(北部アフリカのアラブ文化圏)の勢力などと対峙していたとのことです。


 すでに15世紀には小麦の生産が始まり、一時はヨーロッパ本土への一大供給地となっていましたが疫病で壊滅、大青(植物染料)、オレンジ、とうもろこし、茶葉、ブドウ、パイナップルなどの生産に移り変わっていきました。それが19世紀にはまたオレンジ、ブドウが疫病でやられたそうで、現在は観光業の他は牧畜、林業、漁業が盛んなように見えました。


 林業で植林されているのは日本原産の杉。その他にも日本原産のアジサイがサン・ミゲル島中で見られ、日本から遠く離れているのにどこか既視感のある景観が広がっていました。しかし島の中部にはアゾレス原産種の植物で覆われた森が保護されており、巨大なシダ類や奇妙な枝ぶりの大木が繁茂して、映画ジュラシックパークのセットのような姿を見せています。


 火山島で、人が住み始めてからも何度となく噴火を繰り返し、狭い範囲内でも異なる成分の溶岩が分布しているので、吹き出す温泉も泉質が多様だそうで、こんな茶色い温水プールもありました。





現在、サン・ミゲル島で最大の町、ポンタ・デルガーダ。どの町も教会を中心に拓かれていますが、さすがに中心地のポンタ・デルガーダ、海沿いは漁港や大型客船の着く桟橋、ヨットハーバーがあり、レストランやカフェ、バーなども数多く、さらには行政機関まで立ち並び、観光客と地元の人が夜遅くまでそぞろ歩いておりました。


 サン・ミゲル島からさらに飛行機で小一時間。富士山にも似た孤立峰の火山・ピコ山が印象的なピコ島です。ピコ山はポルトガル共和国の最高峰で標高2351m、日本人が移住していたいたら必ずや「アゾレス富士」と名付けたに違いない姿です。


 山麓には火山岩を組んだ壁にブドウの木を這わせる独自な形態のブドウ畑が広がり、その景観はUNESCO世界遺産に指定されています。ブドウ畑の溶岩壁は、一説によると地球2周分にもなると言われるそうですが、きっとまだ誰も正確には計った人はいなんじゃいないかと思いますよ。過去にはブドウの疫病が蔓延し、生産量が大きく減少したこともあったそうですが、国が補助金を出してブドウの生産を奨励し、新規のブドウ畑の開拓も進んでいました。
 土が乏しいので、溶岩を積んだ壁に隣のファイアル島から持ち込んだ土を入れ、そこにブドウの苗を植えるそうです。黒い溶岩は陽の光を吸収して温かく、水はけもよいのでブドウの根もよく伸び、ワイン造りに好適な甘いブドウが収穫されて、ピコ島はワインの産地として有名です。糖度の高いブドウから造られるワインは甘口で、食前酒や食後のデザートワインとして楽しむのがよさそうです。


 またこの島は捕鯨の島としても知られていました。1985年までマッコウクジラの捕獲と加工を行っており、当時の面影を残す工場や港湾施設が残っています。
 ところがピコ島はきっぱりと宗旨替えをして1987年以降はホエールウォッチングの島として売り出し中。未だに捕鯨を続けている日本国民としては発言に注意を要するところです。

 季節になればマッコウクジラだでなく各種のクジラが回遊してくるし、イルカは通年で島の周りにいて、時にはシロナガスクジラも島の近くに寄ってくるとのことでした。

*  *  *

 世界遺産にも登録される独自の美しい景観を誇るブドウ畑とピコ山。ホエールウォッチングやスキューバダイビングも楽しめ、ヨーロッパやアメリカからの観光客を数多く受け入れるアゾレス諸島ですが、ポルトガル本国の経済が芳しくないこともあり、経済はなかなか厳しいとの話もありました。生活の質(QoL)は高いと地元出身のガイドさんも言っていましたが、現金収入の口が少なく、出稼ぎに出る人も少なくないとの話でした。言われてみれば平日昼間からいい年頃の男女が何をするでもなく町中で遊んでおり、また一歩裏手に入れば日雇いの仕事を求めて寄せ場に集まっている男たちの姿があり、この世の楽園とはいかない現実も見え隠れします。

 町は美しく、道路も人口に見合わないほどよく整備されているのですが、これも裏を返せば公共事業が隠れた主要産業であることの証左なのでしょう。職業訓練校や研修施設が目に付いたのも、働き口が少ないことの裏返しかもしれません。

 どこか、日本の八重山諸島の暮らしを思わせる構造がありました。八重山諸島は石灰岩、アゾレス諸島は溶岩を使っていますが、島の景観も似たところがありますし。八重山が日本でありながら本土の暮らしとは違う独自の文化を持つように、アゾレス諸島にも欧州、ポルトガルでありながらそこともどこか違う、アゾレスとしての独自のアイデンティティがありました。

*  *  *

 機会あればぜひ、行く価値はある場所です。ヨーロッパ本土に比べれば物価も安く、シーフードを中心に食べ物もおいしいし。ただ正直、日本からは遠いです。日本からの観光客はどこでも珍しがられましたし、「地球の歩き方」でもアゾレス諸島全体で1ページ。なかなか思い切りがつかない場所ではありますね。

 旅に出るのは、日常から離れてすごい景色を見たり、心地よい天気の下でのんびりしたいというのもありますけど、違う土地に違う暮らし、違う歴史があることを見ることも大事な要素だと思います。自分の暮らしを相対化するとでも言いましょうか。
 仕事で海外出張もあったりして、旅に出るは腰が重くなりがちなんですけど、やっぱり、時には旅にも出ないといけないなあと実感するアゾレス諸島でした。


May 30, 2016

3年、5年、10年。


 きら星のごとく現れるアーティストやアスリートがいます。画期的な研究成果で注目を浴びる学者もいます。そこまで派手じゃなくても、それぞれの分野で成果を得て、その活躍が世に知られるようになる人もいます。

 そんな人たちの経歴を見ると、3年前、5年前、10年前から努力を重ね、模索を続け、あるいは何か大きな決心を持ち続けていたりします。

 そのとき僕は何をやっていたのか? 3年前、5年前、10年前に、彼ら、彼女らがその最初の一歩を踏み出した時、僕は何をやっていたのか?

 3年後、5年後、10年後にはきっとまた新たなヒーローが現れます。何か大切なことを成し遂げ、またあるいは大きな業績を上げる人が出てきます。

 将来ヒーローになる人たちは、今日、そのスタートを切っているかもしれない。焦っても仕方のないことだけど、僕はこれでいいのか?何かスタートを切って走り始めているのか?またそんなことを自分に問いながら、今日も一日が過ぎていきます。

April 10, 2016

やるなら、それなりに。

とあるジムの会員になっています。

しばらく会員になっていると、話はしないけど、ときどき見かける人っていうのがいらっしゃる。

で、基本的な種目のトレーニングを正しいフォームで、きっちり真剣にやっている人が、ちょっとの間に「あれ?」って思うほど体が変わってることがある。

一方で、よく見かけるんだけど、基本的ではない種目のトレーニングや我流のトレーニングで時間を費やしていく人で、いつまで経っても怠惰な体型のままっていう人も結構いらっしゃる。

ジムに通う理由は人それぞれなので僕がとやかく言うことではないですけど、同じ時間を費やしても、結果が出る人とそうでない人がいらっしゃる。

この差って、体づくりのトレーニングに限らないよなと思ったわけです。練習に同じ時間をかけても、取り組み方次第で結果は全然違う。

人生の長さは有限。結果を出したいなら、結果が出る方法でやりたいね。まして、僕はもう人生折り返し点を超えてるしね。

January 31, 2016

誤差、揺らぎ、隙、不完全さ。

大手食品メーカーがテレビでCMを流しているようなものって、好き嫌いは別にすれば、美味しい。綿密なリサーチをして、研究を重ねて注意深く調整された味で、間違いがない。
それでも、ビストロの料理人が作る味や家庭料理の味にしばしば負ける。食品メーカー製の味が整い過ぎているからだと思う。


CGを駆使した映像は、どこまでも精緻に、時間をかけて製作されたものであっても、大抵はCGだと分かる。リアルさではロケで撮られた映像に敵わないことが、ままある。CGが完璧過ぎるからだと思う。現実世界には存在する不完全なところがないからだと思う。


オペラ歌手の歌声はすばらしいけれど、童謡はオペラ歌手に歌ってもらうより、子供たちが歌っているのを聞いたり、子供たちのために親や祖父母が歌い聞かせているのを聞いたりする方が、胸を打つ。オペラ歌手の歌声が整いすぎてるからだと思う。


三味線の音には「さわり」と呼ばれるほのかなノイズが乗っていて、それが味わいになっている。音叉の出す純粋な音にはない、わずかな不完全さが三味線の楽曲の世界を豊かなものにしている。


映画「攻殻機動隊」の重要なテーマの一つに「ゴースト」という概念があった。人工知能と義体技術が発達して、人に限りなく近いアンドロイドを造ることができるようになっても、最終的に人とアンドロイドを区別する「差」のようなもの。それは人の意識が内包する不完全さ、誤差のようなもので、人間らしさの由来とされている。


そんな誤差、揺らぎ、隙、不完全さを愛したい。大げさに言えば、そこに生きていることのリアリティがあるような気がする。

November 11, 2015

ジェネリック薬の話。


 ジェネリック薬に医師の半数以上が不信感、というニュースが流れて、それについてなんだかんだと議論されていたので、私の思うところをメモっておきますよ。

 私の知識が正しければ、ジェネリック薬って分子構造や製造方法についてのパテントの切れた薬を後発メーカーがコピーして製造しているやつですよね。研究開発費もかかってないし、パテント使用料もかからないので安く製造できる薬。

 で、同じ分子構造なら、薬効は同じなはず。落ちぶれたとはいえ先進国の日本のことですから、その品質くらいはちゃんと保持されているはずなので、服用を特に心配することはないと思います。

 それでも、不信感があるとか、効き方が違う主張する人が少なからずいらっしゃる。「信頼できる医者が効き方が違うと言っていた。」「私もジェネリックは効きが悪かった。」・・・。それはその人にとっては真実で、否定はしません。しかし、疫学的、統計学的には何の意味もない話ですよね。「信頼できる医師がサイコロを振ったら6が出ると言ってた。」「私もサイコロでは6が出た。」と聞いても、では私が次にサイコロを振ったら何が出るかということについては何の示唆もない、それと同じようなことで。
 
 それに、その薬を朝飲んだのか夜飲んだのか、空腹時だったか満腹時だったか、症状が重い時に飲んだのか軽い時に飲んだのか、他にコントロールすべき条件が何にも分からないし、「ジェネリックは正規薬の劣化コピーだ」という先入観、心理的効果もあるでしょうし。一種のプラシーボ効果とも言えそうですけど。

 医師の半数以上が不信感って言ったって、医師にも「ジェネリックは怪しい」という先入観を持っている人はいるでしょうし、患者の方にも同じ先入観を持っている人がいる。他方、「ジェネリックでも同じだ」と思っている医者、患者もいるはずで、そういう心理的な影響が複雑に絡み合ってるに違いない状況下で、適当に「ジェネリックをどう思いますか」とアンケートした結果なんて、ジェネリックの薬効の否定にはなんら繋がらない。しかも、元記事には調査方法が書いてないし、調査対象の母数さえ分からない。疫学的、統計学的には無意味、ただ「一般的な印象はこうです」っていうだけの調査に過ぎません。

*   *   *

 しかしそれでも、ジェネリックの薬の効き方がオリジナルとは異なるというのはあり得る話です。それは、薬効成分が同じでも製薬メーカーが違えば、錠剤や頓服に加工する時の設計が違ってくる可能性があるからです。たとえば同じ薬効成分の物質を同量使って錠剤を作るとしても、飲んだらすぐ溶け始めるようにするか、一定時間経ってから溶け始めるようにするかの違いはある。また、溶け始めたら短時間で溶け切るようにするか、時間をかけて徐々に解けるようにするかの違いもある。そんな薬の設計の違いによる効き方の差というのはあるはずです。

 とはいえ、それはもはや、ジェネリックかオリジナルかという話ではないですよね。薬の設計が違うという話です。

*   *   *

 ということで、自分だったらどう選ぶか。私は、一時期だけ必要な薬であれば、ジェネリックにします。薬の設計の違いなんて飲んでみないと分からないし、体調悪い時にいちいち気にしてられないので、薬効が同じなら安い方でいい。他方、長期間飲み続けなくてはいけないなら、ジェネリックでもオリジナルでも、薬の効き方の相性のいい方を選びます。よく効くのがいいのか、すぐ効くのがいいのか、長く効くのがいいのか、その時の状況に相応しい方と選びますよ。で、どっちでも変わらないなら安いジェネリック。

 保険医療費の国庫負担が膨らみ続けている昨今、可能な限りジェネリックに切り替えるよう推進するのは理にかなっていると思うんですけどね、私は。
 

 

November 03, 2015

嫌いなポン菓子。



 母はポン菓子が嫌いだという。貧しい家で両親共働き、2人の弟がいて家事は小学生の時から自分の役目。そんな幼き日の母が、ちゃぶ台の上に置かれたわずかばかりのお金を持って夕餉の買い物に行くと、街角にポン菓子屋がいる。

 米と砂糖と幾ばくかの小銭を渡すと、「ポン!」とその場で菓子を作ってくれるのだが、母にはそんなことに使える米も砂糖も小銭もなかった。なのに、買い物についてきた下の弟が、「姉ちゃん、ポン菓子食べてみたい。」と母の袖を引くのだ。

 いつもいつもそうやって、ポン菓子屋が「ポン!」とやるのを見ていたので、今でもポン菓子を見るとあの頃を思い出してしまうのだと。だからポン菓子は嫌いだと。

 「ポン菓子食べてみたい。」と言っていた下の弟、すなわち僕の叔父は今年、母より先に逝ってしまいました。享年六十二。指にくっつく甘いポン菓子を食べながら、遠い日の母と叔父を思う秋の夜長です。

September 26, 2015

10年ぶりのインド、20年ぶりのバラナシ。


 久しぶりにインドに行きました。デリーは10年ぶりくらい。バラナシに至っては1996年以来の20年ぶりです。インド自体は5、6回行ってるのでそれなりに勝手は分かってるつもりでしたけど、このご時勢、それだけ年月が経つと一体どうなっているんでしょう。


 20年前には、暗く混んでて臭くて悪そうな人がいっぱいいて、白タクの運転手に引っ張り回されてすごい緊張したデリーの空港は近代的に生まれ変わってて、地下鉄も出来ててすんなり市内まで到着。しかし地下鉄の駅から地上に出てみると、・・・インドでした。

  思い出しましたよ、ここを「機能する無政府状態」と呼んだ人がいたことを。物売り、乞食、調子のいい若者、痩せた肉体労働者、死にかけの人、哲人風の男、サリー姿の恰幅のいいおばさん、不具者、牛、バイク、リクシャー、何をやっているのか分からない人々。混乱無秩序ながら、すべて渾然一体となって流れておりました。10年前とは違って人々の手にはスマホが握られていたけれど、インドは、インドでした。



 デリーのジャマーマスジッドのミナレットにも登ってみました。イスラム教のEidのお祭りが近いせいか、モスクの前の市場は賑わってました。おそらくはEidのご馳走で食べられてしまうヤギもたくさん売買されてて。
 しかし20年。ニューデリー駅前のメインバザール、パハール・ガンジを覗いてみると、昔と変わらず怪しい安宿や、ドレッド風の髪のダラダラした格好で鼻ピアスなんかしてる白人カップル、サンダル履きで襟首の伸びきったTシャツのアジア人のバックパッカーやらを見かけましたが、もうそこは、僕のいるべき場所ではなかったです。変わっていたのは僕の方でした。そもそも僕の荷物はバックパックではなくTUMIのキャリーケースですし。


 そして飛行機でバラナシへ。新しいLCCが国内線をたくさん飛ばすようになっているので、20年前は夜通し鉄道で渡ったインドの大地を、あっけなくひとっ飛び。あの鉄道の旅もいいんだけど、もうあの時のように時間を贅沢には使えない。体力も足りない。




 小舟でガンジス川に出てみる。ついでに対岸まで行ってみる。ボート漕ぎの兄ちゃんは4人の子持ちで大変だというけれど、人が景色を眺めている寸暇にスマホでツムツムみたいなゲームをやっておる。父ちゃん、しっかりしてくれ。


 天気予報は終日雷雨、降雨確率80%みたいなこと言ってたのに、ずっと晴れ、時々曇り。砂埃のせいか霞んでいるけれど、日差しも強くて暑く、体力を消耗します。もう学生ではないのでちゃんとエアコンの効く部屋に宿泊し、タクシーやリクシャーも躊躇せず利用し、ケチらず食べたい物を食べ、小道が入り組む迷路のような街では迷子にならないようにガイドを頼んでも、やっぱりくたびれます。





 体力を消耗するのは、もちろん暑いとか食べ物が違うとかいうのもあるんだけど、やはりこの街の喧騒、五感に流れ込む情報量の多さが原因です。いつもと違う種類の刺激が一気に入ってきて処理できない、処理にエネルギーを要してるんだと思うのです。「刺激が横溢して単調」と評したのは和辻哲郎でしたかね。イコライザーで全ての音域のボリュームを「大」にしているような刺激の横溢です。




 聖なるものも俗なものも、生も死も、美しいものも汚らわしいものも、豊かなものも貧しいものも、あらゆるものが目の前に放り出されているようなところです。偉そうで感じの悪い人、騙そうとしてくる人、親切な人、クソ真面目な人、ひょうきんな人。いろんな人いるのは当たり前なんだだけど、みんなそれを取り繕ったところがなく、息づく営みをありのままに見せられるような体験です。

 結局僕は、こういう喧騒の中に身を晒すためにインドに来ているのかもしれないですね。




 夕飯時に会った日本人学生や空港で見かけた日本人バックパッカーは、似非ガイドにぼったくられた話とか鉄道の切符の買い方とかお腹を壊した話とか、お馴染みの話題で盛り上がっていました。

 彼らは20年前の僕だ。このインド旅行から持ち帰った経験が、彼らのその後の人生を豊かにしてくれますように。旅を続けるという彼らに、使い残した「キレイキレイのウェット除菌シート」「キンチョー蚊がいなくなるスプレー(12時間用)」や「三ツ矢サイダーキャンディ」を進呈しながら、そう願わずにはいられませんでした。

*   *   *


 おまけ。バラナシの街で世話になったガイドのSunilくん。観光客は隙あらばお金を出させようとするやつに付きまとわれるので、最初からひとりに決めてチップを弾んでおくと面倒がなくっていいですよ。見所も効率良く周れるし。Sunilくんのおかげで快適で効率的な観光ができました。

August 16, 2015

名実ともに「もはや戦後ではない。」

僕が小学生の時分には、まだ「おじいさん、おばあさんに戦争の話を聞いてみましょう。」という夏休みの宿題がありました。当時は戦後30〜40年、戦争体験者の多くがまだ存命だったのです。

9月。二学期が始まって、それぞれが聞いてきたおじいさん、おばあさんの戦争の話を教室で披露するんだけど、なんか僕のだけ空気が違う。みんな、つらく悲しく悲惨な話で、「だから戦争はいけません。」という結論になるのだけど、なぜか僕の持ってきた話は武勇伝。お盆に父方の実家に行った折に曽祖父に聞いてきた戦争の話は、妙に勇ましいエピソードが続き、最後は戦勝を喜んだところで終わっている。

そう、僕の曽祖父が出征した戦争は第一次世界大戦で、僕に語ったのもそのときの体験だったんです。彼は第二次世界対戦の終戦時には50歳手前、高齢で徴兵されなかったらしい。どおりで話が合わないわけです。

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そして戦後70年。その曽祖父も僕が大学生の時に96歳で他界。

第一次世界大戦を覚えている人はほぼ絶えて、第二次世界大戦の体験は歴史と呼び換えられています。直接戦争を体験した人の声を聞くことも減り、名実ともに「もはや戦後ではない。」時代なのだなと、8月14日に発表された戦後70年総理談話を読みながら改めて実感しております。